February 05, 2022

【追悼特集】山野博大先生の一周忌に寄せて

The Dance Times(ダンス・タイムズ)の代表として私共をまとめてくださっていた山野博大先生が2021年2月5日に84歳で永眠され、早くも1年が経ちました。山野先生は1950年代から60年以上にわたって舞踊評論家として活動され、国内で開催されるあらゆるジャンルの舞踊公演やコンクール、発表会やおさらい会にまで足を運び、新聞や舞台専門誌等に数多くの批評を寄稿されました。先達の功績の継承にも熱心に取り組まれていて、山野先生が編著者としてまとめられた『踊る人にきく 日本の洋舞を築いた人たち』(三元社、2014年)は、日本の舞踊史を知る上で欠かせない一冊となっています。

執筆活動に加え、文化庁文化審議会文化政策部会や文化庁芸術祭、芸術文化振興基金等の委員、舞踊賞やコンクールの審査員を歴任され、舞踊の枠をこえ、日本の舞台芸術界全体の発展、国の文化政策の推進にも力を尽くしてこられました。昨年山野先生の訃報に際し、振付家、ダンサー、批評家、制作者、研究者など舞踊に関わる様々な立場の方が寄せた文章を拝見し、先生が日本の舞台芸術界に対して果たされてきた役割の大きさと多彩さに改めて驚かされました。

私共ダンス・タイムズのメンバーにとって偉大な師を失った喪失感は大きく、コロナ禍で集まって先生を偲ぶこともできないなか、一人一人がその悲しみを昇華して追悼文を紡げるようになるまでに長く時間がかかりました。一周忌にあたり、ここに追悼文を掲載いたします。先生の様々な面を広く知っていただきたく、各人がそれぞれ異なるテーマを設定しております。舞踊評論家としての矜持、舞踊史や舞踊批評を次世代へ継承することへの思い、愛した作品や劇場、そして先生の人生を豊かにしたお酒や趣味。ご覧いただき、それぞれの目から見た、師匠としての山野博大先生の姿、遺していただいた教え、そして人柄に思いを馳せていただければ幸いです。(折田 彩) 


★山野先生のみ2


目次
 ◇稲田奈緒美 「舞踊史の表と裏を併せ呑む〜舞踊批評家 山野博大」
 ◇隅田 有  「山野先生とライラック・ガーデン」
 ◇宮本 珠希 「随想〜山野先生を偲んで〜」
 ◇折田 彩  「詠む人」
 ◇平野恵美子 「舞踊史への想い」
 ◇吉田 香  「山野博大先生の理想郷 カラス・アパラタス」 

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舞踊史の表と裏を併せ呑む〜舞踊批評家 山野博大
                                      稲田 奈緒美

 2021年2月5日(金)、舞踊批評家・山野博大先生が84歳で亡くなられた。その前日、4日の19:30から吉祥寺シアターで上演された、笠井叡構成・演出・振付による『櫻の樹の下には』の客席では、うらわまこと氏を挟んで筆者と並んでご覧になっていた。筆者が軽口をたたき、苦笑していらした姿はいつもと変わらずお元気だったので、突然の訃報に驚くと同時に、その鮮やかな幕切れが山野先生らしくも感じられた。

 舞踊批評界の重鎮たる山野博大氏は、舞踊批評、舞踊研究を細々と続けていた筆者にとっては遠い存在であった。2006(平成18)年度の文化庁芸術祭の舞踊部門審査員としてご挨拶するようになり、大阪で行われた授賞式からの帰途、新幹線の車中で初めてゆっくりお話しする機会を得た。
 当時の舞踊批評界では、「日本ダンス評論賞」を受賞して舞踊批評家を志す若手が現れていたものの、批評を発表する場は限られていた。一方、舞踊研究でも若手研究者が自由に議論する機会は乏しかった。その両方を経験し、若手から相談を受けていた筆者は、「ダンススタディーズ研究会」を若手研究者らと立ち上げようと準備しているところだった。そこで、舞踊批評についても学び、研鑽する場の必要性を、山野先生にご相談した。すると、ご自身の経験や知識を若い批評家に伝え、育てたいと考えておられた山野先生が、舞踊批評塾を主宰することを快諾してくださったのだ。車中でのビールの酔いもあってのことなので、後に「あの時、あなたからそそのかされて……」と苦笑されることになる。
 また、山野先生の盟友であった舞踊批評家・研究者の故・市川雅(1937−1997)から、筆者が大学院で指導を受けていたことも、快諾の理由のひとつだった。市川雅先生は、舞踊批評家も舞踊のアカデミックな知識が必要であることを行動で示されていた。山野先生は盟友の早い死を惜しむと共に、盟友と同様に舞踊批評は単なる印象批評であってはならず、正確な情報、知識に基づいた記録と客観的な記述が必要であるとお考えだった。そのため、批評家、研究者がともに学ぶ場としての「ダンススタディーズ研究会」に賛同し、自ら「舞踊批評塾」を主宰するという、気風の良い決断をしてくださったのだ。 

 このような“内輪の事情”をここで書いたのはほかでもない。舞踊界でも歴史の裏には、様々な事情が影響しているからだ。その後は、舞踊公演でお会いするたびに「ちょっと飲んでいかない?」とお誘いいただき、ビール片手に、実に様々な舞踊界、舞踊批評界の表と裏の話を聞かせていただいた。表の歴史は残るが、その背景にある人々の事情や思いは記録として残らない。表も裏も了解したうえで、伝えるべきことは伝える、という清濁併せ呑む人間臭さとでも言おうか、寛大さ、懐の深さゆえに舞踊のジャンルや立場、世代を超えて、多くの人から信頼され、敬われたのだろう。

 2007年1月13日、「ダンススタディーズ研究会」が19名の参加者と共にスタートした。メンバーを変えながら2011年2月26日に第19回を開催した後、残念ながら途絶えてしまった。他方、「舞踊批評塾」は2007年6月16日に山野先生を含めて11名で始まり、近年まで継続した。そこで育った若い舞踊批評家たちを中心に、2010年にはウェブ上批評誌『The Dance Times』が創刊され、山野先生は亡くなる直前まで投稿を続けられた。締め切りも文字数も気にせず、自由に書ける場を十分に楽しんでおられたのだ。同時に、常に気遣っておられたのは、できるだけ国内の舞踊家による公演を取り上げ、記録として残すことだ。海外の有名バレエ団、ダンス・カンパニーは、舞踊雑誌、舞踊紙に批評も多く取り上げられる。しかし、本当に舞踊批評という他者の目、客観的な評価を欲しているのは、国内、地方で地道に活躍する舞踊家や中堅、若手の舞踊家、カンパニーである。できるだけそのような公演を見て、批評という形を残すことを望まれたのだ。
 
 「舞踊批評塾」を始める際、2007年3月24日の「ダンススタディーズ研究会」第3回に、山野先生をゲストスピーカーとして迎え「日本の舞踊批評家史」をお話しいただいた。今、筆者がとった記録を読み返すと、山野先生の個人史が戦後の日本舞踊史と重なっている。表も裏も。ここでは、その中から舞踊批評家となった経緯を抜き出し、山野先生の人柄を伝えたい。
 
・昭和11(1936)年、東京の下町生まれ。母親の影響を受けて「粋か野暮か」で判断するようになる。
・昭和25(1952)年に中学校入学(慶応)。クラスメイトの酒井達男(たーちゃん、と親しそうに呼んでいらした)から影響を受けてバレエに興味を持つようになる。酒井は小牧正英に師事した後に渡仏し、元パリ・オペラ座の名教師セルジュ・ペレッティの後継者となった人物。また草刈民代の父親もクラスメイトで、演劇青年だったとのこと。(筆者追記:そのほか慶応の早熟な芸術的環境、同窓コネクションは後々まで活かされた)
・昭和27(1954)年、高校入学。
・1954年、小牧バレエ団がアントニー・チューダーとノラ・ケイを招聘して上演した『ライラック・ガーデン』を見て感銘を受ける(このくだりは、隅田有さんの弔文に詳しい)。群舞に酒井達男が出演しており、批評を『音楽新聞』に投稿したところ、見事掲載された。
・1954年、コレット・マルシャン、ミロラード・ミスコヴィッチバレエ団公演を鑑賞。山野先生のお話では、モーリス・ベジャールの「高電圧」を上演したそうだが、現在検索できるバレエ・アーカイブには出てこない(注:今回用いた、昭和音大バレエ研究所によるバレエ・アーカイブは、記載はないが山野先生が寄贈した公演プログラムがベースになった、とご本人から聞いている。山野先生による丁寧な資料の保存、緻密な整理、記録がバレエ界の財産となっている)。
・慶応義塾大学法学部入学。バレエの文献は、まだ慶応大学三田図書館には少なく、アメリカ文化センター図書館へ行って洋書を広げて勉強していたところ、声をかけてきたのが光吉夏弥。光吉の知己を得て、舞踊批評家を志すようになるが、まず言われたのが「感想だけでは中学生の作文」、「歴史に位置づける」こと。カードに文献名やページ数などを書き、自分のデータベースを作成することを勧められた。
・在学中の1957年から舞踊批評の執筆を始める。
・批評技術を得るため、学生時代は週2回、服部・島田バレエ団、貝谷バレエ団、石井漠舞踊研究所等へ通って、練習を見せてもらい、見る目を鍛えた。
・昭和34(1959)年、大学を卒業し、金融系企業へ就職。営業職だったため、日中に十分な成果を挙げて仕事を済ませ、夜は接待をせずに舞踊公演を見て、批評を書く生活が始まる。新聞社がバイクで原稿を、勤務先まで取りに来た。年間約200本、最多で年間300本の公演を見た。
・(筆者追記)時代は1960年の安保を挟み大いに揺れていた。企業内組合の要職についていた時期もあり、当時の舞踊批評を拝読すると、権威主義的な舞踊団体やコンクールを痛烈に批判しているものもある。当時のインテリ青年の多くと同様に、思想的な変遷も伺える。
・(筆者追記)ある時、舞踊紙に酷評を書き、舞踊批評の仕事を1年間ほされたことがある。それを救ってくれたのが、『オンステージ新聞』を創刊した谷孝子氏。ゆえに「谷さんからの頼みは断れない」と笑いながらおっしゃっていた。

 このように舞踊批評家、山野博大が誕生し、その後約60年にわたり日本の舞踊界と共に歩んできたのだ。舞踊公演後に伺ったお話も非常に多岐にわたり、ここではとても記しきれない。だが、山野先生の軽妙な語り口共に、様々な歴史の表と裏が、舞踊批評塾のメンバーとして山野先生に育てられ、その後ウェブ上ダンス批評誌『The Dance Times』で健筆を奮っている若い批評家たちに伝わっている。彼女たちが、次の世代に伝えてくれることだろう。

 最後に、山野先生が舞踊批評の役割として前述の研究会で語っていらっしゃったことを記しておこう。

・舞踊批評家は見る側のエキスパート。
・舞踊は残らないものだが、舞台で起こったことを残すのが舞踊批評。
・写真、ビデオは、その場、その社会の空気は残せない。
・舞踊批評が書かれることによって、その舞踊は後世に残る。
・主義主張の根拠となるのが、見る視点のユニークさと知識。
・何故いいのか?を説明するのが舞踊批評家。

 現在では舞踊紙、舞踊雑誌なども減り、舞踊批評家が書く場は益々減っている。一方で一般観客が、公演の感想などを気軽にネット上へアップできる環境に変化している。批評家が書き活字として残る批評と、一般観客がネット上で発信する文章の垣根も、差異も低く、小さくなっていくことだろう。だが、そのどちらにも山野先生が残された批評から、言葉から刺激を受け、学び、飛躍しようとする者がいるはずだ。そのために、この駄文を弔文としたい。筆者には微力しかないが、山野博大先生の言葉を浴びた者の責任として、その言葉を伝えていきたいと思う。

 山野先生、ご面倒ばかりおかけしました。お詫びすると共に、改めてお礼を申し上げます。舞踊をジャンルにこだわらず愛し、舞踊を作る人、関わる人たちを敬い、舞踊界の発展を常に考えていらした山野先生に出会えたことを、心より幸せに思います。ありがとうございました。

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山野先生とライラック・ガーデン
                                                                                                     隅田 有

山野先生がダンス・タイムズに寄稿する際は、意識的に国内のダンス・カンパニーの公演を選んで舞台評を書いていたが、鑑賞する舞台の幅は驚くほど広かった。日本全国で開催される、バレエ、現代舞踊、日本舞踊、コンテンポラリー・ダンス、大規模なフェスティバル、地元の発表会、はたまた演劇、歌舞伎、ジャニーズのステージ1まで、精力的に足を運んでいた。月に一回開催される編集会議の席では、最近観た舞台の感想を聞かせてくれるのが常だった。舞台を愛し、何でも観る我らが山野先生だったが、とりわけ思い入れのある作品が幾つかあった。アントニー・チューダー振付の『ライラック・ガーデン』はそんな作品の一つだ。邦題『リラの園』の名前で呼ばれることもあるが、山野先生は『ライラック・ガーデン』と呼んでいたので、本稿でも英語のタイトルでいこうと思う。

『ライラック・ガーデン』の日本初演は1954年。当時の山野先生は慶応ボーイで、日吉キャンパスに向かう電車を途中下車して、バレエ団のレッスンを見学したり2、招待公演に学ラン姿で現れて主催者を驚かせたりしていたころだ。法学部だった山野先生は、卒論のテーマを選ぶ際も、なんとか舞踊に関連した内容にしようと知恵を絞り、著作権法についての研究にしたそうだ。この時代の日本の舞踊界では著作権の意識が低く、山野先生の卒論のテーマは先行研究がほとんどなかったそうだ。卒業後、著作権に関する勉強会の講師を務めたというエピソードを伺ったことがある。

さて、はなしが逸れたが、山野先生が本格的に舞踊批評を書き始めたのは、1957年ごろで3、『ライラック・ガーデン』は批評家になるきっかけとなった作品の一つだそうである。日本初演は小牧バレエ団主催で、チューダー本人と当時の花形ダンサーであるノラ・ケイが来日し、東京や大阪などの劇場で数ヶ月にわたり上演された。キャロライン、恋人、婚約者、愛人に、ノラ・ケイ、岩村信雄、小牧正英、太刀川瑠璃子が出演した記録が残っている4。本作の他に『火の鳥』『カフェ・バー・カンカン』『白鳥の湖』『ドン・キホーテ』などから3、4作が披露され、『ライラック・ガーデン』が上演されなかった回もあるようだが、とまれ当時の文化人の間では話題の公演だったようだ。鑑賞記録は見つかっていないが、吉岡実もこの公演を見たと考えられる一人だ5。

吉岡実は戦後の日本を代表する詩人の一人である。その吉岡の詩に『ライラック・ガーデン』という作品がある。すでに他所に一度書いたことがあるので、ここで改めて全文を引くことは控えるが6、「紫のいろは夜のみつぎもの/すべての音楽が沈みやすいように」で始まる詩はグロテスクで艶やかで、不思議な魅力に溢れている。直接バレエ作品を示す言葉は使われていないものの、チューダーの作品から想を得ていることは間違いない。「これは絶対観て書いてますヨ」。山野先生もそうおっしゃっていた。

この詩は私が図書館でたまたま手に取った一冊に掲載されていた。図書館に返却したあとに、あらためて購入した同詩集を『ライラック・ガーデン』マニアの山野先生に差し上げた7。中古でしか手に入らず、Amazon経由で届いた本はタバコ臭かったが、山野先生はとても喜んでいた。「え、もらっていいの?いやー嬉しいね」とおっしゃった時の笑顔が蘇る。山野先生は持ち帰った詩集を隅々まで読んだようで、後半に掲載されている吉岡の日記抄の中に『コッペリア』の鑑賞記録を見つけたことを、後日報告してくれた。昭和22年10月6日に吉岡は帝劇で『コッペリア』を鑑賞しているが、山野先生の記録によると、これは日本初演(同10月4日)の二日後だ。ちなみに吉岡はコッペリア役のダンサーを知っていたようで、全然踊らない人形の役でがっかりしたと書き残している。


山野先生と最後にお会いしたのは、2021年1月の東京シティ・バレエ団の公演会場だった。背広の内ポケットに携帯している、山野先生お手製の舞踊公演一覧を眺めながら、先生が楽しみにしている舞台やイベントの話を伺った8。すこし前まで月に一度は集まっていたのに、コロナ禍でそれもままならない。この時も、またみんなで集まって飲みたいねというような話しをしたと思う。ところで先生との最後の会話が宴会の話しだったというのは、私だけではないようだ。下町出身の粋な先生に、しめっぽいのは似合わない。「また飲みたいねぇ」と言い残して、みんなの前からいなくなった。私はひどくさみしいけれど、山野先生らしい幕だと思う。目に浮かぶのは生ビールのジョッキを持った、笑顔の山野先生だ。

1滝沢歌舞伎の舞台評がダンス・タイムズに掲載されている。
2いくつかのバレエ団の稽古場に入り浸っていたそうだが、谷桃子バレエ団の稽古場は通学途中にあって、よくレッスンを見学させてもらったとおっしゃっていた。ちなみに自分で踊ることには、一度も興味を持たなかったそうである。
3平成23年度文化庁芸術祭主催:新国立劇場バレエ団公演『パゴダの王子』http://www.dance-times.com/archives/4001043.html
4公演記録詳細日・英・米・文化交歓 小牧バレエ団特別公演 招聘ノラ・ケイ、アントニー・チュウダー
5舞踊が好きで軍隊時代は女装して踊ったことがあるという。大岡信との対談でも、土方巽や笠井叡を熱心に見ていると語っている。その同じ対談で「舞踊には関心があったんだけど、バレーやなんか観ないわけ、あんまりきれいすぎて、完成されていて。」と述べている。(新選 吉岡実詩集 新選現代詩文庫110 思潮社 https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN04307179 )バレエを見ないといいながら、見ていないと言えないようなことを語っているのである。
6隅田有『吉岡実と舞踊』
7吉岡実詩集 現代詩文庫14 思潮社 ISBN : 4783707138
8手元に届く招待状や劇場でもらうフライヤー等をもとに「舞踊公演案内」というタイトルで、山野先生はひと月ごとに公演スケジュールをまとめていた。このリストは長年「週刊オン★ステージ新聞」に掲載されていたが、それとは別に山野先生が自宅のプリンターで印刷したものを、個人的にも沢山の人に発送していた。

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随想〜山野先生を偲んで〜
                                                                                                  宮本 珠希

忘れもしない2021年2月7日、普段はほぼ足を運ぶことのない、そして奇しくも山野先生の出身地付近である江東区大島にて訃報に接し、余りにも突然のことにしばらく呆然としてしまったのを昨日のことのように思い出す。現在も、劇場に赴く度に先生の不在を実感するとともに、幕間や終演後にお話した時間がいかに貴重で充実したひとときだったかを噛みしめる日々である。会場で先生とお会いすると、作品やダンサー評をリアルタイムで伺えることはもちろん、その上演史や過去のエピソードを、ときにユーモアを交えつつ語ってくださっていた。半世紀以上、ほぼ毎日公演をご覧になられていても尚、それぞれのダンサー、振付家、作品と、どこまでも真摯に対峙されているお姿は本当に印象的で、幕間に開口一番「いやぁ、いいねぇ」と仰った舞台に居合わせた時などは、同じ空間、時間を共有できることをとても嬉しく思ったものである。こうして約10年間、さまざまな場でお世話になり、2021年1月、谷 桃子バレエ団『海賊』が上演された東京文化会館のホワイエで、次の幕を告げるベルが鳴り席へと戻る際に「またみんなで飲みたいねぇ」と声をかけていただいたのが、最後となった。

振り返ってみると、2011年の秋、とある取材帰りのバスの中で先生とたまたま前後の席になり、(その場にいたスタッフの後押しもあり)思い切って私から!お話させていただいた際、「もし興味があれば連絡をください」と“ダンス・タイムズ代表”と書かれた名刺をいただいたのが、この媒体に参加するきっかけとなった。後に、母体である舞踊批評塾設立も新幹線の中で稲田先生が山野先生の隣に座られたことから、という経緯を知り、「先生は移動中によく女性から声をかけられますねぇ!」と皆で笑ったものだ。普段は編集の仕事をしているため、お誘いいただくまでは、自らが書き手になる、ということを考えもしななかったが、一から手ほどきを受け、批評のいろはを丁寧に教えていただいた。

・批評というのは、自分の頭の中だけで留めておくのではなく、文章化することが大切

・批評はその時代に直接触れている人が書いている、よってその時代がどのような状況だったかを理解して読むこと

・故に「時代」というものが、自分の書くものの中でどのように表れているかも常に意識して、作品や舞台を次の世代に的確に伝えてゆくこと

先生の言葉は、今までもこれからも変わることなく、自分が批評を執筆する際の根幹を成すだろう。

また、バレエ関連の書籍を制作した際、「鑑賞の手引き」というテーマで原稿を快く引き受けてくださり、「評論家」と「編集者」という立場でたった一度でもご一緒できたことも、私にとってのかけがえのない財産である。そして、先生からいただいたお手紙の数々―――。何度読み返しても、「博」識洽聞、かつ徳量寛「大」な先生のお人柄がひしひしと伝わる文章に、今日も胸を打たれている。

山野先生、今まで本当にありがとうございました。
私がそちらに行った際は、あの日のバスを降りる瞬間のように
また「山野先生!」と一番に声掛けさせてくださいね。

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詠む人
                                                                                                   折田 彩

 山野先生が亡くなられて早くも1年が経ちますが、未だに実感がわかず、私がお会いできていないだけで東京の劇場のホワイエに今日もいらっしゃるのではないかしら、と遠くから思い続けています。先生に最後にお会いしたのは、2020年1月の新国立劇場のシーズン・ラインアップ説明会で、会の終了後、いつもの笑顔で「毎年恒例の忘年会ができなかったから、代わりに新年会をやらない?」とお声がけくださいました。せっかくお声がけいただいたのにメンバーの予定がなかなか合わず、そうこうしている内に新型コロナウィルスの感染が拡大し、新年会はおろか劇場のホワイエで挨拶することすらできなくなってしまいました。お酒と酒席をこよなく愛していた先生との最後の思い出にお酒が無いのは味気ないですが、先生の目に最後に映った自分が劇場で働く姿だったことには何か意味があると信じて、劇場人として、ダンスの制作者として、これからも歩み続けていこうと思います。
 先生と私の関係は、ダンス・タイムズと舞踊批評塾のメンバーの中では一番浅く、稲田奈緒美先生にお声がけいただいた縁で2013年に舞踊批評塾の集まりに参加したことがきっかけです。「批評塾」という名称から、我々が提出した批評を山野先生、稲田先生が添削して講評する会を想像してドキドキしながら臨みましたが、作者を伏せた批評をメンバー全員で読み、「ドンキの評をここまで丁寧に書くなら、ドン・キホーテまでで終わらせずにサンチョ・パンサにも言及した方がいいよ」「勅使川原の文学を主題にした作品は難解だから、作品は原作の物語から距離を取っているけど、粗筋についてさらっと触れておいた方が親切だね」など、批評をブラッシュアップするアイディアを全員で出し合い、最後に執筆者が「私が書きました」と名乗り出る、和やかでダンス愛に満ちた会でした。会の後はきまってパブに行き、ビールを飲み、ポテトを摘みながら、山野先生が語る舞踊史のレジェンド達のぶっ飛んだエピソードで大いに盛り上がりました。
 初めて批評を書く私に山野先生は繰り返し「50年後に読んだ人にどんな作品だったかが伝わるように書きなさい」とおっしゃいました。第一に、作品の主題、楽曲、全体の構成、振付の特徴、出演者名などの事実を丁寧に記載すること。まずは作品の概要を、それから細部を描くこと。良い悪い、好き嫌いといった筆者の主観を書くのには慎重であること。山野門下の末弟として、批評に限らず、ダンスについて文章を書く時は常に胸にきざんでいる、大切な教えです。
 批評においては常に抑制の効いた客観的な文章を書かれた山野先生ですが、批評以外の場では、情感のこもった印象に残る言葉を多く紡がれました。先生の多彩な趣味の一つは俳句で、「ひよどり句会」と舞踊関係者の句会「まよい句会」という二つの俳句会に所属し、半世紀にわたって句作活動を続けられました。気の置けない同人達と定期的に割烹や小料理屋に集まって、持ち寄った兼題を合評し、句会の後はお酒と料理と会話を楽しむ。作者名を伏せた批評を相互に合評し合う舞踊批評塾のスタイルは、先生が長年親しまれてきた句会からヒントを得たと伺い、腑に落ちる思いがしました。我々若手が委縮せずに批評を発表し、他のメンバーの文章からも学べるよう、環境を整えてくださいました。会の後に必ずお酒が入るのも、山野流句会の踏襲だったのかもしれません。
 以前、室伏鴻さんの訃報を受けて、先生が「自分より下の世代までどんどんあっちに行っちゃうから嫌になるねえ」としみじみおっしゃっていました。1936年生まれの山野先生は、舞踊の道を志した十代の頃に憧れていたレジェンドの方々、一緒に日本の舞踊界を盛り上げた同世代の仲間達のほとんどを見送り、最近は後輩の振付家やダンサーを見送ることも多くありました。先生が仲間達のお別れの会で詠まれた弔辞やダンス・タイムズに寄せてくださった追悼文は全て、故人の人柄や業績を温かなエピソードを交えて紹介するにとどまらず、故人の活動が当時の日本の舞踊界にどのような影響を与えたのか、日本の舞踊史のなかで今日どのような意義を持つのか、言葉を尽くして教えてくださるものでした。先生が追悼文を寄せられた故人のなかには、私が寡聞にしてお名前や功績を存じ上げない方もいたのですが、追悼文を読むと、その方の作品がどのようなものであったか、活動が後進にどのように受け継がれているかをはっきりと知ることができます。どの追悼文も、先生の「50年後に読んだ人にどんな作品だったかわかるように」というモットー通りの名文ばかりです。先生が我々メンバーに、そして舞踊を愛する全ての方に遺してくださった一番の財産は、このダンス・タイムズのサイトのなかに詰まっているたくさんの文章だと確信しています。いくら読んでも減らないこの素晴らしい財産をこれからも何度も読み返して、自分でも言葉を編んでいきます。自分は生きていないかもしれない50年後に、読んだ方にも伝わるように。

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舞踊史への想い
                                                                                            平野 恵美子

山野先生に最後にお会いしたのは、2020年11月29日アクトシティ浜松に於いてだった。佐藤典子先生(佐藤典子舞踊研究所ほかを主催)が企画実行された《コンテンポラリー・ダンスって何?》で基調講演を行われ、パネルディスカッションに出演された。日本における洋舞史の生き字引のような先生はまさに適役だった。客席では休憩時間に短いご挨拶を差し上げただけだったが、楽屋にささやかな差し入れをお届けしたところ、後日、大変丁寧なお手紙を頂いた。

私ごとになってしまうが、一昨年7月に上梓した拙著『帝室劇場とバレエ・リュス』をお送りした際に、とても温かいお気持ちのこもったお礼のお手紙を頂いた。この本は巻末に、40頁弱の当時のオペラとバレエのレパートリーと上演回数の資料が付いている。『帝室劇場年鑑』の記録を数えてまとめたものだ。お手紙には有難いお褒めの言葉を色々頂いたのだが、特に感激したのは次の一文だった。

「このような資料は、出来上がりはひとつの表ですが、それをまとめ上げるために、予想を超えた長い時間がかけられていることを、小生は自分の拙い経験から知っています。」

著者の自分が言うと自慢のように聞こえてしまうかもしれないが、そうではない。資料の裏側にある地道な作業まで見通す深い見識と思いやり。舞踊評論家として膨大な経験を積まれ、何歳になられても探求心をお持ちの山野先生だからこそ発せられる言葉だと感銘を受けた。

不調法者の自分はこのお手紙に対するお礼をお伝えするのを怠ってしまっていた。そのことがずっと気がかりで、浜松でご講演されると知り、短いお手紙と気持ちばかりのチョコレートを託けたのだった。その返礼が冒頭に記したお手紙である。

2020年はコロナ禍で春先から様々な公演が中止になった。小さな公演も大きな公演も常に分け隔てなく劇場に足を運んでいらした先生は、さぞお寂しい日々を過ごされていたのではないだろうか。秋頃からようやく劇場も少しずつ再開されるようになり、入場者数を制限してではあったが《コンテンポラリー・ダンスって何?》が無事に開催されたことは本当に幸いだった。

石井漠、津田信敏らの歴史的な作品をその場でご覧になっていた先生は、今日の踊り手が再現することの難しさを感じつつも、日本の舞踊の歴史を考える機会に貢献されたことを嬉しく思っていられたようだった。そしてお手紙には次のように記されていた。

「世界的なコロナ・ウィルス感染の拡大は一向に収まる様子が見えません。そのような中で、さまざまな制約を乗り越え、はつらつと踊るダンサーたちの、いつもに増しての躍動感に、心を打たれます。生身の肉体の動きによって人間の感動を伝える舞踊という芸術のすばらしさに改めて感動をもらっています。コロナ騒動がなかったら、このような経験はできなかったかもしれません。」

何て愛に溢れた文章なのだろう。山野先生は心の底から舞踊を愛しておられた。舞踊界の重鎮で非常に偉い立場でありがなら、決して他人を見下したり尊大な態度を見せたりすることはなかった。常に純粋な気持ちで舞踊を観て楽しまれ、感動されるフレッシュな感性を最後までお持ちだった。

山野先生とは舞踊の批評塾とその後の酒席で何回かご一緒させて頂いた。気さくでお優しい方だった。劇場ではいつもきちんとスーツを着こなされ、ぴんと伸びた背筋が美しかった。慶応ボーイらしく、ダンディで紳士だった。身なりもお人柄も文章も全てに品があった。先生がご覧になって来た舞踊の歴史についてのお話をもっともっと伺いたかった。

今、劇場に行って新しいダンスを見ると、ついつい山野先生もご覧になりたかっただろうな、などと考えてしまう。招待席や休憩時間のロビーに山野先生のお姿を見られないのがとても寂しい。

山野先生、貴重な知識を惜しみなく分かち合い、舞踊批評の書き方を教授して下さり、本当に有難うございました。こんなにも突然、私たちの前からいなくなってしまうなんて想像もしていなかったけど、一緒に過ごした時間、楽しくお話ししたことは忘れません。今はどうか安らかにお眠り下さい。いつか天国でお会いできたら、先生が逝ってしまわれた後に観た舞踊のお話を致します。先生は「天国から見ていたよ」と笑っておっしゃるかもしれませんね。

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山野博大先生の理想郷 カラス・アパラタス
                                                                                                   吉田 香

「あの空間にはまっちゃってねえ。荻窪に通ってるんだよ」。山野博大先生は嬉しそうに教えてくれた。“あの空間”とは、勅使川原三郎+KARASが2013年に設立したスタジオ「カラス・アパラタス」のこと。小スペースながら、地下1階には待合室兼ワークショップや展示会を開催するスタジオが、地下2階には劇場がある。そこでは、アップデイトダンス シリーズとして、数々の作品を世に出し続けており、多い時には月に3本もの新作を発表したこともある。世界的に活躍する勅使川原が佐東利穂子と共に、公演にまつわる全てに携わり、1時間踊り続ける。それを息がかかる距離で、わずか数十名の観客が見届けるのである。この小さな劇場から生まれて、世界に羽ばたいた作品はいくつもある。

「振付はもちろん照明や音楽、何から何まで勅使川原がやっているのを目の前で見て、その世界観にどっぷり浸かってね。一見すると、ムーブメントが同じようであっても、常にアップデイトされている。そこを見るのが楽しみなんだ」。設立当初から通い詰めていた山野先生に触発されて筆者もアパラタスを訪れるようになり、程なくして、見事にはまった。

アパラタスを訪れて、1階の受付で応対してくれるKARASの橋本さんに「山野先生もいらしてますよ」と教えてもらうと、待合室への階段を降りる足取りが弾んだものだった。「特等席を用意してもらっているんだ」と先生は得意げに一列目の少しシモテ側の席に座る。先生の利き目(良く見える方の目)は右だったからだろう。開演前には、最近見て印象に残った公演の話をしてくれた。

アパラタスでは、演者がその時々のパフォーマンスに全力で向き合い、自分達に起こる変化を楽しみながら、常に進化し続ける。それを目の当たりにする観客は、自分も公演を構成していると実感する。はっきりとしたストーリーがなく、セットもミニマムで、説明し過ぎない舞台は、見る者にとって思考のトレーニングになる。彼らの変化=アップデイトを感じ取るには、見ている側も毎回真剣勝負で立ち会い続ける必要がある。

山野先生は常々「ダンスは映像では残せない。例え同じ作品、振付、キャストでも観客と共に作る空気は毎回違う。生ものである舞台の空気を残せるのは批評だけ。だから批評を書かなくちゃいけない」と言っていた。その根底には、舞踊が好きでたまらなくて、自分が立ち会ったその素晴らしい一瞬を後世に残したいという気持ちがあったのだと思う。その昔、先生はルドルフ・ラバンが開発した舞踊の記譜法「ラバノーテーション」を研究した。しかし記号では舞台の一期一会の空気が残せず、限界を感じたはずだ。だからこその批評。先生のこの精神にピタリとはまったのがアップデイトダンスであり、批評家の醍醐味を味わえる場所こそアパラタスだったのだろう。

そんな先生でも音楽を一切使わない『「静か」 無音が構成する時間とダンス』を見る前には、どう批評を書いたらよいか不安な様子だった。しかし、執筆されたものを読ませてもらうと、無音がいかに豊かだったかしっかりと書き込まれていて、さすが先生と感嘆したものだった。

アパラタスに限らず、公演後にはよく先生のお気に入りの店に立ち寄った。特に焼き鳥やギョウザを食べながらビールを飲むのが好きだった。「少しは控えないと」と言うと「こっちは何年痛風やってると思ってるの!」と面白く返されてしまう。主治医にも同じように言っていたとのことだ。年に数回は、痛風で足が痛み、杖を突くことがあった。それでも先生には休むという選択肢はない。駅から遠い劇場までも長い時間を掛けて足を引きながら歩いていた。その姿は、静かだけれど情熱に満ちていて、声を掛けることができず、ただ遠くから見ていたものだった。

飲みながら舞台の話をしていると、あっという間に時間が過ぎ、終電を逃さぬよう慌てて駅に向かったこともしばしばだった。そんな時でも先生は「帰って原稿書かなくちゃ」と80歳を過ぎても溌剌としていた。帰りの電車も一緒だった。先生のご自宅は千葉県市川市にあったが、出身は筆者が住む東京の深川エリアだった為、下町についてもよく話してくれた。深川の人々の気質を「相手に気を使わせない気遣い」と表現していたが、それはまさに山野先生のことであった。「若い頃に先輩の批評家からしてもらったことをしているだけ。恩返しなのだから、払わせて」と言いながら、よくご馳走してくれた。こうしたところにも、自身が批評家としていかに生きるか、美学を貫いていた。先生のお誕生日会などでご馳走した際には、とても喜んでくださった。お店にいる人全員が「ハッピーバースデー」を歌ってくれた時には手を振って応え、プレゼントした花束を嬉しそうに抱えて電車に乗っていたのを思い出す。

そんな充実した楽しい日々が、新型コロナウィルスの蔓延で断ち切られた。2020年4月に出された初めての緊急事態宣言によって、一切の公演が中止になり、その頃に先生から頂いた手紙には、舞踊界が置かれている現状への憂いや舞踊への熱を持て余してお酒の量が増えていることなどが書かれていた。

宣言解除後に先生が初めて観た舞台が、アパラタスで行われた『永遠の気晴らし』(2020年6月12日)だった。その批評には、久しぶりに生の舞台に接した興奮と“舞踊を見ること”の本質を改めて噛みしめている様子が生々しく記されている。(http://www.dance-times.com/archives/5655171.html

 “舞台が明るくなる。いつもと同じように勅使川原が何気なく立つオープニング。舞踊公演を見るのは2ヵ月半ぶりだ。踊りを見始めてそろそろ70年になるが、見ない間隔がこんなにあいたのは初めてのこと。勅使川原の動きは繊細そのものだ。それでいてパワーがある。小さく両手を動かし、それを全身に伝え、さらに舞台いっぱいに広げて行く。佐東の力強く流麗な動きが続く。観客は、作品につけられたタイトルを頼りに踊り手の動きと向き合い、それぞれに自分の身内に作品を形作る。それが舞踊を見るということなのだ。私は舞踊にひどく飢えた状態でこのプロセスをたどり、いつも以上に自分のからだの中で激しくうごめく何かを感じた。” 

そして、批評の最後には、ライフワークだった俳句まで披露していた。久々の極上の気晴らしにご機嫌だった様子が窺えて、微笑ましい。

これを機に先生は、見た公演のほぼ全てについて批評を書くようになった。原稿のデータが入ったSDカードを郵送してくれて、筆者がダンス・タイムズにアップした。添えられていた手紙には、最近読んで参考になった舞踊関係の書籍のこと、テレビで放映されたバレエ公演を朝方まで見てしまったこと、芸術祭の執行委員長に就任してやる気がみなぎっている様子等々が綴られていて、日本を代表する舞踊批評家はこうして自身をブラッシュアップしているのだといつも感心しながら読んでいた。

山野先生との出会いは2000年頃のことだ。当時筆者は留学中で、ニューヨークの路上のスタンドに置かれていたフリーペーパー(日・英バイリンガル)の執筆等のアルバイトをしていた。そこに先生が日本の舞踊の歴史について寄稿されたのが縁だ。先生はメールが嫌いで、ファックスで原稿を送るので、筆者がタイプし、時には翻訳をしていた。帰国する際には「よほどのお嬢様でない限り、働かなくちゃいけないでしょう」と声を掛けてくれた。筆者の批評をいつも読んでくれていると聞いて、とても光栄で嬉しかった。以来20年以上、何かにつけて気に掛けて、導いてくれた。先生が60歳まで会社員と批評家の二足の草鞋を履いていたことに触れ、とにかく舞台をたくさん見て、書き留めていれば、いつか批評だけに集中できる日が来ると励ましてくれた。先生の送った人生は筆者の憧れである。

2007年には、山野先生が稲田奈緒美先生と始めた舞踊批評塾に参加させてもらった。「批評を教えるように頼まれて困っちゃってねえ。一緒に行かない?」と山野先生に誘って頂いたのがきっかけだ。この時に参加していなかったら、ダンス・タイムズを立ち上げた仲間との出会いはなかった。批評塾は俳句が好きな先生らしく、お題となる公演を決め、それぞれが無記名で書いた批評を句会のように合評する形式だった。自分の様に舞踊がマニアックな程好きな人達がいること、細かい表現まで突き詰めて話し合える場があることが心から嬉しかった。初回の批評塾の最後に「この評を書いたのは誰?」と山野先生に問われ、筆者が挙手すると「あなただったの」と微笑んでくださった姿が今でも目に焼き付いている。

山野先生からは『白鳥の湖』の日本初演、ニューヨーク・シティ・バレエ団の初来日、舞踊界のレジェンド達との交友録等々、歴史の生き証人である先生ならではの羨ましいお話をたくさん聞いたが、先生の素晴らしいところは「昔は良かった」だけではないところだ。常に先生も自身をアップデイトしていて、ジャンル、年代、国などに縛られることなく、自分の物差し・審美眼で舞台を見て、批評を書いていた。ある講習会の締めの言葉で「三大バレエしか観たことがない、コンテは分からないから見ないなんていう子供は育てたくない」と語ったのが印象的だ。

全国津々浦々、大小様々な劇場に山野先生は通っていたが、カラス・アパラタスは、先生の理想の劇場の一つの形を体現していたのだと思う。先生の豊かな人生の最後の8年に更なる彩りが加えられて本当によかった。

山野先生、お会いするといつも冗談ばかり言って、改まってお礼をすることが叶いませんでしたが、私は先生に感謝してもしきれません。ありがとうございました。これからも、劇場のロビーでは、ビシッとスーツを着こなして、綺麗に整えられた白髪の先生のお姿を、自宅のポストを開けては、先生からのお手紙とこまめに入力されていた公演一覧表でパンパンに膨らんだ封筒を探す日々が続きそうです。


ayaorita at 00:42
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