August 02, 2019

関直人先生お別れの会

5月10日、戦後のバレエ・ブームの頃にスターの座につき、以後ずっと日本のバレエ界をリードし続けてきた関直人が亡くなった。享年89。7月26日、彼が長く芸術監督として働いた井上バレエ団が“関直人先生お別れの会”を渋谷エクセルホテル東急6階のプラネットルームで行った。彼と共に日本バレエ界を盛り立ててきた同年代の仲間たちをはじめ、彼の教えを受けた多くの後輩たち、彼の周囲にあって共に人生を歩んだ者などが集い、その功績を偲んだ。

まず、井上バレエ団理事長の岡本佳津子が立ち、彼の最後の様子について語った。前の日に体調が悪いので「教え」を休むという電話があったのが最後だったようだ。患うこともなく、前の日まで元気に日本のバレエのために働いてこられた関直人の終焉を、うらやましく思った人は多かったのではないか。

指揮者の福田一雄、松山バレエ団の清水哲太郎・森下洋子ら多くの者から、さまざまな関直人像が語られた。近くのオーチャードホールから仕事着のまま駆けつけた熊川哲也は、北海道で教えを受けた頃の想い出を語り、日劇で彼の教えを受け、後に“マツケン・サンバ”で大いに売った真島茂樹は、彼の振付の奥の深さを実演入りで明かして会場を沸かせた。

福島県に生まれた関直人(本名=関根直治)は、1946年の東京バレエ団による『白鳥の湖』全幕日本初演を見て、その振付を担当した小牧正英の門を叩く。たちまち頭角を現し、1948年11月に東京バレエ団が有楽座で行った第4回公演で『白鳥の湖』を谷桃子と踊った。19歳だった。1950年11月に小牧バレエ団が行った『ペトル―シュカ』日本初演では、ペトルーシュカを演じた小牧正英、バレリーナの広瀬佐紀子/笹本公江(ダブルキャスト)と共にムーア人を踊り、世界初演のニジンスキー、カルサヴィナ、チェケッティの向うを張った。1952年に小牧バレエ団がソニア・アロワを招いて行った『眠れる森の美女』全幕日本初演では、新進の須永晶子と『青い鳥』を踊り、当時の日本バレエ界若手の技術力の高さを内外に示した。

彼は創作の面でも早くから才能を顕した。1956年7月、日比谷公会堂で行われた小牧バレエ団新作公演でドビュッシーの音楽による『海底』を発表した。魚に見立てた女性ダンサーを男性がリフトして泳がせる動きの執拗な繰り返しが、大自然の奥深さに通ずる舞踊表現となった。

小牧バレエ団で多くの経験を積んだ関直人を、日本各地のバレエ団が迎えて舞台づくりを頼むことが多くなり、彼の日常は超多忙となった。そんな彼のことを、小林紀子、三谷恭三、佐々保樹、森田健太郎、うらわまことらがさまざまな角度から語った。彼は関わるバレエ団ごとに、実情に合わせて舞台を作ることのできる稀有な「職人技」の持ち主だった。

福島県に住む関直人の親族から、無事に納骨が済んだことの報告があった。生涯独身を貫きバレエの道に専心した彼を、親戚の人たちは「彼の魂は福島のお墓にとどまることなく、日本中のバレエの現場に寄り添い続けるにちがいない」と語った。さらに彼の隣人で飲み友達だったという人が登場して、バレエ以外の関直人の飾らぬ日常を語るという一幕もあり“関直人先生お別れの会”は終始暖かい空気に包まれたまま進行した。

私は、井上バレエ団の諸角佳津美から献杯発声の依頼を受けていた。若い頃には近寄ることもできなかった大スター関直人の“お別れの会”で、こんな大事なことをやらせてもらってよいのだろうかという想いがあった。4月7日に行われた“小牧正英先生を偲ぶ会”の世話人代表として、同じ渋谷エクセルホテル東急の、同じ会場で、師の遺影に杯を献じた関直人の姿を思い出しつつ、大役を果たした。日本のバレエ界は大事な人を送り出してしまった。(文中敬称略)

(山野博大)


jpsplendor at 19:09レポート 
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