May 02, 2017
追悼! バレエの創作に生涯をかけた横井茂
2017年2月27日、日本における創作バレエの歴史に、『美女と野獣』『城砦(とりで)』『リチャード三世』『オンディーヌ』『求塚』など、数々の名作バレエを残した横井茂さんが亡くなった。
横井さんは1930年5月24日、宝生流17代目家元の宝生九郎を父として生れた。1946年の東京バレエ団による『白鳥の湖』全幕日本初演の舞台を見てバレエを志し、1948年に小牧バレエ団に入団した。1949年4月9〜24日に東京バレエ団が帝国劇場で第6回公演を行った時の『シェヘラザード』で初舞台を踏んだ。以後、小牧バレエ団の全公演に出演するが、1951年に退団し、広瀬佐紀子、笹本公江、日高淳、太田招子らと共に、東京バレエ協会を結成した。1955年1月10日に行われたその第1回公演で『ジゼル』を広瀬佐紀子と踊り、切れ味のよい演技が注目されるようになった。
1957年6月27日、横井茂・太田招子バレエ団の結成公演で『美女と野獣』を太田招子と共に振付け、振付者デビューを果たした。この作品は、野獣の住みかをはじめとするさまざまな情景を、すべてダンサーのからだを組み合わせて作るというアイデアのおもしろさと構成の確かさで高く評価された。
1953年2月、テレビジョンの本放送が始まり、番組に舞踊が取り上げられることが多くなったことで、横井さんをはじめとする若手舞踊家たちは、多忙を極めた。そんなテレビの仲間などを集めて彼は東京バレエ・グループを結成し、1960年11月24日にその第1回公演を東横ホールで行った。そこで上演した横井茂振付『城砦(とりで)』が芸術祭奨励賞を受賞した。これ以後、創作バレエを発表し続けた横井茂と東京バレエグループは、毎年のように芸術祭賞を受賞することとなり、彼は「芸術祭男」とはやされた。その過程で彼は、シェイクスピアもののバレエ化を『ハムレット』『リチャード三世』『マクベス』『オセロ』『リア王』『ロミオとジュリエット』と行い、独特の作風を固めた。
彼の作風は、バレエのテクニックをベースにしながら、新しいジャズダンスなどのテクニックやリズム感も取り入れ、日本の古典芸能を思わせる夢幻の世界を出現させるというものだった。作中の人物像がしだいにくっきりと描き出されてくる独特の味わいが見る者の心に響いた。
1967年12月20日、横井さんは文部省派遣の第1回在外芸術研修員としてアメリカ、ヨーロッパへと旅立った。海外での経験は、その後の彼の作品の幅を広げたが、根にあたるところの変化はなかったように思う。
日本のバレエ界では、1950〜60年代に創作活動が活発になったが、バランシン、ロビンズ、プティ、ベジャールらの作品の日本での上演が増えるにつれて、日本人作家の新作への関心度は低くなった。しかし東京バレエ・グループは、1995年4月30日の第33回まで途切れることなく公演を続けた。第33回はパナソニック・グローブ座で行われ、『リア王』と『夕映えに』を横井茂と新井雅子の振付で上演した。それを踊ったのは、新井雅子、安達悦子、稲村真実、三谷恭三、堀内充、中島伸欣、柳下規夫、片岡通人ら。美術の藤本久徳、照明の沢田祐二、衣裳の田代洋子ら気心の知れたスタッフとの仕事が変わりなく行われた。横井さんの東京バレエ・グループの35年間は、どこまでも作品を発表し続け、日本発の創作バレエの確立を目指すものだった。
1982年2月19日、舞踊作家協会が設立され、その第1回公演を虎ノ門ホールで行った。そこで、若松美黄が『どぶろく』を、石田種生が『マイセルフ』を、小川亜矢子が『パ・ド・シス』を、アキコ・カンダが『晩歌』を、雑賀淑子が『台所のバラード』を、藤井公が『海を見ている馬』を、庄司裕が『冬の子守唄』を、そして横井茂が『ウィーン・ウィーン・ウィーン』を発表した。彼らは、日本の創作洋舞運動の中枢に位置する人たちであり、以後もティアラこうとう小ホールを拠点として、その後継者たちが息長く公演活動を続けている。横井さんはその代表として終世、創作舞踊活性化の運動に関わったのだった。
横井さんは、その生涯を日本の創作バレエのために捧げた。最近、日本のバレエ・ダンサーの技術水準は世界の一流に伍して行くほどに向上してきた。しかし「創作」の面では、残念ながらまだ世界に追いついていないのが実情だ。日本のバレエの歴史は、1920年にロシア革命に追われて来日したエリアナ・パヴロバがバレエを教えはじめてからのもの。カトリーヌ・ド・メディシスが、1581年10月15日に『王妃のバレエ・コミック』を催してから400年以上の年月を経ている西欧のバレエと、やっと100年の日本の差は、歴然たるものがある。しかしいつの日か、世界に日本のバレエの存在が認められる日が来るだろう。横井さんの生前のたゆみない創作活動が、その実現を早めるために役立つものであったことを忘れてはいけない。彼の生涯かけた献身に感謝し、その安らかな永遠の眠りを祈る。
合掌
(山野博大)
横井さんは1930年5月24日、宝生流17代目家元の宝生九郎を父として生れた。1946年の東京バレエ団による『白鳥の湖』全幕日本初演の舞台を見てバレエを志し、1948年に小牧バレエ団に入団した。1949年4月9〜24日に東京バレエ団が帝国劇場で第6回公演を行った時の『シェヘラザード』で初舞台を踏んだ。以後、小牧バレエ団の全公演に出演するが、1951年に退団し、広瀬佐紀子、笹本公江、日高淳、太田招子らと共に、東京バレエ協会を結成した。1955年1月10日に行われたその第1回公演で『ジゼル』を広瀬佐紀子と踊り、切れ味のよい演技が注目されるようになった。
1957年6月27日、横井茂・太田招子バレエ団の結成公演で『美女と野獣』を太田招子と共に振付け、振付者デビューを果たした。この作品は、野獣の住みかをはじめとするさまざまな情景を、すべてダンサーのからだを組み合わせて作るというアイデアのおもしろさと構成の確かさで高く評価された。
1953年2月、テレビジョンの本放送が始まり、番組に舞踊が取り上げられることが多くなったことで、横井さんをはじめとする若手舞踊家たちは、多忙を極めた。そんなテレビの仲間などを集めて彼は東京バレエ・グループを結成し、1960年11月24日にその第1回公演を東横ホールで行った。そこで上演した横井茂振付『城砦(とりで)』が芸術祭奨励賞を受賞した。これ以後、創作バレエを発表し続けた横井茂と東京バレエグループは、毎年のように芸術祭賞を受賞することとなり、彼は「芸術祭男」とはやされた。その過程で彼は、シェイクスピアもののバレエ化を『ハムレット』『リチャード三世』『マクベス』『オセロ』『リア王』『ロミオとジュリエット』と行い、独特の作風を固めた。
彼の作風は、バレエのテクニックをベースにしながら、新しいジャズダンスなどのテクニックやリズム感も取り入れ、日本の古典芸能を思わせる夢幻の世界を出現させるというものだった。作中の人物像がしだいにくっきりと描き出されてくる独特の味わいが見る者の心に響いた。
1967年12月20日、横井さんは文部省派遣の第1回在外芸術研修員としてアメリカ、ヨーロッパへと旅立った。海外での経験は、その後の彼の作品の幅を広げたが、根にあたるところの変化はなかったように思う。
日本のバレエ界では、1950〜60年代に創作活動が活発になったが、バランシン、ロビンズ、プティ、ベジャールらの作品の日本での上演が増えるにつれて、日本人作家の新作への関心度は低くなった。しかし東京バレエ・グループは、1995年4月30日の第33回まで途切れることなく公演を続けた。第33回はパナソニック・グローブ座で行われ、『リア王』と『夕映えに』を横井茂と新井雅子の振付で上演した。それを踊ったのは、新井雅子、安達悦子、稲村真実、三谷恭三、堀内充、中島伸欣、柳下規夫、片岡通人ら。美術の藤本久徳、照明の沢田祐二、衣裳の田代洋子ら気心の知れたスタッフとの仕事が変わりなく行われた。横井さんの東京バレエ・グループの35年間は、どこまでも作品を発表し続け、日本発の創作バレエの確立を目指すものだった。
1982年2月19日、舞踊作家協会が設立され、その第1回公演を虎ノ門ホールで行った。そこで、若松美黄が『どぶろく』を、石田種生が『マイセルフ』を、小川亜矢子が『パ・ド・シス』を、アキコ・カンダが『晩歌』を、雑賀淑子が『台所のバラード』を、藤井公が『海を見ている馬』を、庄司裕が『冬の子守唄』を、そして横井茂が『ウィーン・ウィーン・ウィーン』を発表した。彼らは、日本の創作洋舞運動の中枢に位置する人たちであり、以後もティアラこうとう小ホールを拠点として、その後継者たちが息長く公演活動を続けている。横井さんはその代表として終世、創作舞踊活性化の運動に関わったのだった。
横井さんは、その生涯を日本の創作バレエのために捧げた。最近、日本のバレエ・ダンサーの技術水準は世界の一流に伍して行くほどに向上してきた。しかし「創作」の面では、残念ながらまだ世界に追いついていないのが実情だ。日本のバレエの歴史は、1920年にロシア革命に追われて来日したエリアナ・パヴロバがバレエを教えはじめてからのもの。カトリーヌ・ド・メディシスが、1581年10月15日に『王妃のバレエ・コミック』を催してから400年以上の年月を経ている西欧のバレエと、やっと100年の日本の差は、歴然たるものがある。しかしいつの日か、世界に日本のバレエの存在が認められる日が来るだろう。横井さんの生前のたゆみない創作活動が、その実現を早めるために役立つものであったことを忘れてはいけない。彼の生涯かけた献身に感謝し、その安らかな永遠の眠りを祈る。
合掌
(山野博大)