May 03, 2014
石井漠直系の弟子を経て、独自の舞踊を拓き、舞台に立ち続けた黒ちゃんの死を悼む
黒沢輝夫さんが4月11日に亡くなった。1928年1月30日の秋田県生まれだから、享年86。1946年、18歳で同郷の石井漠を頼って上京し舞踊の世界へ。終戦直後の日本の舞踊界は極度の男性不足だったせいで、もう翌年から舞台に立っていた。彼は「舞踊団に入ったのは戦後まもなくです。1947年頃からです。地方公演が多かったですね。群馬県の前橋が僕の初舞台なんです」と語っている。石井漠の晩年の作品を踊った。1953年11月、日比谷公会堂で初演された『人間釈迦』にも出演している。1956年6月、終生のパートナーとなる下田栄子と共に《黒沢輝夫・下田栄子第1回舞踊公演》を神奈川県立音楽堂で行い『蛇性譜』などを発表して独自の道を歩みはじめた。
1961年10月15日に、読売ホールで行われた《石井漠舞踊生活50周年記念公演》では、石井漠の代表作のひとつ『白い手袋』を江崎司、石井晶子と踊り、同門の中心ダンサーのひとりであることを示した。その時も『人間釈迦』が再演されたが、そこで彼は、石井漠、加藤博、石井はるみ、北井一郎、渡辺史郎、石井かほる、石井不二香、松島トモ子、友井唯起子、大野弘史、石井晶子、寒水多久茂、石井みどり、和井内恭子、法村康之らと舞台を共にした。
1958年10月18日に神奈川県立音楽堂で《第1回神奈川県芸術舞踊祭》が行われた。このあたりから、黒沢輝夫・下田栄子の舞踊活動は地元の神奈川県芸術舞踊協会につながるものが多くなり、『神の火』(1960年)、『光と影』(1961年)、『東洋の印象』(1964年)、『光ある世界』(1969年)、『心の神殿』(1971年)、『朝もやの白い道』(1973年)、『遺跡の壁』『記憶の糸』『和』『北風の吹く日』(1974年)、『朝凪』『白い影』(1975年)などの作品を生みだす。
この創作修行の実績が認められ、1975年2月21日に東京文化会館で行われた《'75 都民芸術フェスティバル東京都助成現代舞踊公演》に『道』を発表する機会が与えられた。『道』は彼の代表作となった。構成・振付を黒沢輝夫、台本を前田允、美術を前田哲彦が担当し、長可子、池田貞臣、近正文子、村上クラーラ、吉武多佳子、小池幸子らが踊った。
神奈川県芸術舞踊協会の創立メンバーであり、会長、名誉会長を務め、組織のまとめ役として多忙な日々を送った。そのかたわら日本各地の舞台にこまめに出演し、古くからの舞踊仲間の相手役として端正なパートナーぶりを披露した。その中には台湾の高雄市文化センターで行われた李彩娥舞団2010公演《現代舞踊の父=石井漠》など、海外の舞台も含まれる。
1996年12月1日、地元神奈川のランドマークホールで《黒沢輝夫・下田栄子舞踊生活50年記念:舞踊の夕べ》を行った。次いで2010年5月15日、横浜赤レンガ倉庫1号館で黒沢輝夫・下田栄子舞踊公演《まだ踊る》を、さらに2012年6月17日、慶応大学日吉キャンパス内藤原洋記念ホールで、黒沢輝夫、下田栄子、黒沢美香舞踊公演《まだ踊る》と続け、いつまでも踊り続ける旺盛な意欲を示した。当時、84歳だった彼は『金色に踊れる男』を自作自演した。これはレースの裳裾を長く引いたインド風の衣裳で前半を踊り、後半はそれを脱ぎ捨てて金色のふんどしだけになるという過激なものだったが、少しも年齢のハンデを感じさせなかった。
1962年1月7日、師の石井漠が亡くなった後は、いろいろな機会をとらえてその作品を後世に残すことに力を注いだ。2002年12月7日に草月ホールで行われた《石井漠没後40周年記念公演》で『ゴリウォーグのケークウォーク』を、2009年7月1日に日本橋劇場で行われた《全日本舞踊連合:第30回記念舞踊ゼミナール》で『山を登る』を、どちらも娘の黒沢美香を相手に踊り、日本の現代舞踊の培ってきた豊かな成果を次の世代へと引き継いだ。
2013年9月18日、渋谷区文化総合センター大和田さくらホールで行われた現代舞踊協会主催の《時代を創る現代舞踊公演》では、若い米沢麻佑子を相手に『道』を踊った。気負わず、たんたんと舞台上に斜めに当てられた光の線をたどり、そっと米沢と交錯する控え目な動作は、黒沢輝夫ならではのノーブルなものだった。
彼の生きた86年は、どこまでも踊ることに徹し、それに生きた日々だったと思う。好きなことを最後までやれたのだから、幸せな人生だったに違いない。多くのすばらしい舞台を見せてもらったことに感謝しつつ、安らかな眠りにつかれることを祈る。
山野博大