August 03, 2013
【追悼島田廣】長きにわたる日本バレエ界への貢献の大きさを想う
2013年7月25日、日本バレエ界の長老である島田廣(本名=白成珪)さんが亡くなった。
1919年9月27日の京城生まれであり、享年は93。
当初は演劇を志したが、エリアナ・パヴロバの門下となり、そのパートナーを務めた。1941年、パヴロバが軍隊の慰問先の中国で急逝した後は、服部智恵子と共にパヴロバ舞踊団の存続に力を注いだ。それを母体として1941年、服部・島田バレエ団を結成した。
1946年8月、戦争に負け焼け野原の広がる東京で『白鳥の湖』の全幕日本初演という快挙がなされた。それを実現させたのは東バレエ団(東勇作が主宰)、貝谷バレエ団(貝谷八百子が主宰)、服部・島田バレエ団が合同して臨時に結成した東京バレエ団だった。島田さんは、貝谷八百子と組み、東勇作と組んだ松尾明美とのダブルキャストでタイトル・ロールを踊った。この『白鳥の湖』日本初演には裏話がある。日本の舞踊ジャーナリストの最長老、村松道弥は「昭和21年の4月に島田が『東京新聞』を見ていると、ドイツから帰って来た現代舞踊の邦正美の帰朝談がのっていた。『これからの日本は、アカデミックなバレエをやらないとだめだ』とバレエを相手にしなかった人が『白鳥の湖』のようなものをやれというのを見て、憤慨居士で、未だ若い熱血漢だった島田はその切抜きを持って(中略)代々木初台の蘆原英了の家にかけつけた」と書いている(私の舞踊史・中巻)。島田さんはいやがる蘆原を説得して担ぎ出し、バレエ団の合同という不可能を可能にしたのだ。
その時、『白鳥の湖』の演出・振付を担当したのは、上海のロシア・バレエ団で踊っていた小牧正英だった。上海のロシア・バレエ団には、ロシア革命で亡命したマリインスキー・バレエの人たちとディアギレフの死んだ後もバレエ活動を続けていたその関係の人たちが寄り集まっていた。そこで頭角を現した小牧は、マリインスキーとディアギレフという色合いの異なる幅広いレパートリーを身につけることができた。その小牧が、日本の敗戦を機に帰国したことが、『白鳥の湖』の全幕日本初演を可能にしたのだった。この出来事は敗戦の痛手から立ち直れずにいた当時の人たちを勇気づけ、それをきっかけとして日本にバレエ・ブームを巻き起こした。それまで日本で優位を占めていたモダンダンスは、バレエにその地位を譲った。
東京バレエ団の中心を占めた人たちの当時の年齢は、服部が38才、東が36才、小牧が35才、島田、松尾、貝谷らは30才にもみたなかった。それがとつぜん巷の人気者になったのだから、足並みが乱れるのも無理からぬことだった。まとめ役の蘆原(当時39才)は、もともとそういうことが肌に合わず、早々に身を引いた。新参の小牧がバレエ団を独自に結成し、あちこちからダンサーを引き抜くという事態も発生し、1950年東京バレエ団は第7回公演をもって解散のやむなきに至った。その最終公演で島田さんは、『コッペリア』のフランツ役を当時はまだ若手だった関直人とダブル・キャストで踊った。この頃になると小牧と島田の確執はかなり表だったものとなっていた。しかし島田さんは最後まで東京バレエ団の公演を大事にして、小牧の秘蔵っ子の関直人とのダブル・キャストを拒否しなかった。
東京バレエ団が解散した後の日本バレエ界は、群雄が割拠する戦国時代の様相を呈した。既存のバレエ団の不満分子を募って別行動を起こす者も後を絶たず、群小のバレエ団が次々と名乗りをあげ、混乱に拍車がかかった。そんな1957年、ボリショイ劇場バレエ団が初来日して公演を行ったことがきっかけとなり、大同団結の機運がいっきに高まり、1958年日本バレエ協会が結成された。ボリショイ・バレエの来日は、1956年10月にモスクワで日ソの国交回復を果たした鳩山一郎全権に同行した服部が、先方と直接交渉したことにより実現した。ボリショイ初来日の舞台を見て、日本のバレエ界という小さなコップの中でいがみ合っていた人たちは、その実力の違いを目の当たりにし、力を合わせることの大切さに目覚めた。その中核となったのが服部、島田だった。1950年に解散した東京バレエ団がやり残したことを、日本バレエ協会公演が引き継ぐ形で再出発した。しかし二人の前にはまだまだいろいろの困難が襲いかかってきた。
1965年1月、服部智恵子舞踊生活40周年記念リサイタルを行い、服部と島田は自らのバレエ団を解団してフランスへと旅立った。フランスでは、バレエ公演の現場を体験して1969年に帰国する。エリアナ・パヴロバ以来、日本のバレエは日本舞踊などの古典芸能にならって濃密な師弟関係を基礎に舞台を重ねてきた。しかしそれが世界のバレエの歴史とは別のものであることに二人は気づき、そこまで実績をあげてきたバレエ団を畳んでまで、フランス行きを決意したのだ。彼らは帰国して、バレエの本場のやり方を出来るところから日本の土壌に移植しはじめた。
服部は1971年に日本バレエ協会会長に就任し、1984年に75歳で急逝するまで、その包容力で日本のバレエ界を暖かく指導した。島田さんはその後任を引受け、2002年に名誉会長となってその地位を谷桃子に譲るまでその職責を果した。さらに島田さんは1997年開場の新国立劇場バレエ団の初代芸術監督となり、その進路を定めるという難しい決定を下して後を牧阿佐美に託した。服部と島田がその生涯をかけて目指したのは、常に日本バレエの発展だった。島田さんは、次々と困難な職責を引き受け、正しい結果を残したばかりか、自分がその職を退いた後のことにも心を配り続けた。
私はニムラ舞踊賞の選考に関して、地元の人たちへの周到な気配りの実際をはじめ、この賞の特異な選考の尺度など、いろいろと大事なことを教えてもらった。島田さんは、1973年の第1回受賞者であり、その後も長く選考委員を引き受けていたので、新村英一の出身地である諏訪市の関係者との交流も親密なものがあった。特に祝賀会の開かれる名旅館「ぬのはん」の先代の経営者、その後を継がれた藤原吉彦氏、ニムラ舞踊賞を市の事業として継続することを決めた山田市長との密接な連携プレイを私は身近に見せてもらった。賞の主宰者とその選考委員という関係を超えた人間的な接触ぶりから教えられたものは大きかった。
日本のバレエ界に対する服部、島田両名の貢献の大きさを改めて思い、謹んで島田廣先生のご冥福を祈る。(山野博大)
<追記>2013年9月22日午前11時より、東京會館において、日本バレエ協会主催の追悼の会が催される。