June 25, 2013
日本バレエの創造を目指した河内昭和の生涯を想う
2013年6月7日に、86歳の生涯を終えた河内昭和の葬儀が新宿区の落合斎場で行われた(6月12日=通夜、13日=告別式)。喪主は妻の佐多達枝。葬儀は無宗派の「送る会」形式で行われた。長男の河内連太の挨拶に続き、故人と親交の深かった根本豊重、森龍朗、小森安雄らが思い出を語った。白バラを献花する参列者の長い列ができた。
河内昭和は、1927(昭和2)年1月1日、東京で生れた。暁星中学校を卒業し、予科練を目指した。軍国少年だった。特攻隊を志願したが、出撃を待つうちに終戦となり、命を長らえる。明治学院専門学校に入った1946(昭和21)年に、帝劇で行われた東京バレエ団による『白鳥の湖』全幕日本初演を見たことでバレエの道を目指す。ただちに服部・島田バレエ団のスタジオでレッスンに打ち込んだ。19歳だった。以後、服部智恵子、島田廣の薫陶を受け、服部・島田バレエ団の公演に出演して主要な役柄を任されるようになる。島田廣がフランツを演じて好評だった1950年2月の東京バレエ団第7回公演の『コッペリア』でも踊った。この公演を最後に東京バレエ団の分裂が決定的となる。戦後の奇跡と言われたその歴史に、ぎりぎりのところで彼の名前が残った。
ところが、1953年11月27日、小森安雄、松岡みどり、石田種生、粕谷辰雄らと共に彼はバレエ団を脱退し、青年バレエ・グループを結成する。東バレエ団で踊っていた佐多達枝もこのグループに加わった。彼らが目指したのは、フランスのバレエ、ロシアのバレエ、イギリスのバレエ、アメリカのバレエなどと肩を並べられるような日本独自のバレエを創ることだった。当時の日本の主要バレエ団がやっている公演は、外国の物まねに過ぎないと、彼らは考えたのだ。1955年9月26日青年バレエ・グループは第1回公演を行ったが、河内はそこでセザール・フランクの曲を使った『対流』を発表し、牛山充に「近来出色の佳作」と評された。この作品は直後の10月1日に行われた佐多達枝第1回発表会でも再演されている。
1958年1月、青年バレエ・グループの第3回公演では、佐多達枝と小森安雄が共作した『ひかりごけ』が上演された。これは武田泰淳の小説のバレエ化で、孤島に漂着して食べるものがなくなった四人の男たちが一人ずつ仲間を食べて生き続け、一人が残るというストーリーだった。それについて若き日の私は「バレエの表現の可能性を今迄になく強力に展開したもの」と評した。
1960年、青年バレエ・グループは、江川明、中村友武らを加えて組織を拡大し、名称も東京青年バレエ団と改め、活動を続けた。この時期になると、33歳の河内昭和は日本バレエの創造という大目標は佐多達枝に委ね、自らはそれを背後で支える立場をとるようになる。
1970年になると、バレエ団の活動と別に《佐多達枝・河内昭和バレエ公演》が行われるようになり、それがいつの間にか《佐多達枝・河内昭和バレエ団公演》となる。さらに《佐多達枝バレエ公演》となって今に至っている。その中で佐多達枝は息長く創作を続け『陽の中の対話』『私達は讃歌を歌わない』『君、解脱と呼ぶなかれ』『満月の夜』『走れメロス』『女殺油地獄』『四谷スキャンダル』『死んで花実が咲くものか—爛漫黄金花』『父への手紙』『ヨハネ受難曲』『走れメロス』『カルミナ・ブラーナ』『beach-ナギサカラ』『dogs』『お七』『庭園』『わたしが一番きれいだったとき』などの、数々の日本バレエの名作を生みだした。
これらの名作の背後には、常に河内昭和の姿があった。1960年代に、日本バレエの創造という困難な道を選んだ彼は、自らに課したその目標を達成したと確信して、大きな満足を味わいつつ86歳の生涯を終えたと思う。冥福を祈る。
(山野博大)
(山野博大)