September 28, 2011
アキコ・カンダの死を悼む
2011年9月23日、アキコ・カンダが亡くなった。
75歳だった。寿命の延びている最近の日本女性としては、かなり早すぎる。この9月11日に青山円形劇場で《アキコ・カンダ・モダンダンス公演・花を咲かせるために〜バルバラを踊る》を、元気に踊り終えたばかりのことであり、その突然の逝去には語るべき言葉もない。
アキコは幼少の頃から石井漠の義理の妹の石井小浪の舞踊研究所に入り、指導を受けた。小浪は、1922年の石井漠の欧米巡演にパートナーとして同行し、向こうの観客からは東洋の真珠と評され、ソロの名手として歴史に名を残した人だ。アキコには、その芸が受け継がれていた。
彼女は1955年に来日したマーサ・グラーム舞踊団の舞台を見て衝撃を受け、伊藤道郎の紹介でグラームに面談し、弟子入りすることを承知させた。1956年7月11日に第一生命ホールで《神田明子(アキコ・カンダ)第1回公演》を行い『雨に濡れたバイブル』他を発表した直後に、アメリカへと旅立って行った。
たちまちのうちにマーサ・グラーム舞踊団のトップ・ダンサーとなり、世界にアキコ・カンダの名前が知られる。しかしアキコは1961年7月19日、5年ぶりに帰国し、そのままアメリカへ戻ることはなかった。スターを失ったマーサ・グラーム舞踊団から、そして何よりもマーサ自身から、早期復帰を望む要請が執拗に繰り返されたが、彼女はそれに応じなかった。ずっと後になって「どうして戻らなかったのか」と私は彼女に聞いてみた。彼女の答えは「マーサのお人形になるのが怖かったから」というものだった。
帰国した彼女に日本の舞踊界は冷たかった。踊る場を失った彼女は、1964年9月4日、サンケイホールで《アキコ・カンダ舞踊公演》を行い、自作の『ゼフィロス』『二つの魂』『黄昏』で自ら踊る場を取り戻した。この公演の美術を岡本太郎、音楽を黛敏郎という有名人が担当したことで、周囲は目をみはった。その後も自力で公演活動を続け、1969年10月の芸術座における《アキコ・カンダ舞踊リサイタル》で発表した『フォー・シーズン』により第23回芸術祭優秀賞を受賞する。以後、1974年の芸術祭大賞、1989年の芸術選奨文部大臣賞、2001年の舞踊芸術賞などを受賞している。
1970年代に入って彼女は、小田島雄志、戸板康二、戸部銀作、梅原猛ら著名人に舞踊台本を書いてもらい、それを自ら演じて劇的な世界を開拓する一方、渋谷ジァンジァンなどの小劇場で「女」を踊るソロ活動を、そしてダンス・カンパニーを率いての小品集による公演など、多彩な活動を続け、しだいに独自の舞踊スタイルを形作る。
アキコの舞踊は、マーサ・グラームとの出会いによって一気に燃え上がった。しかしそのまま、その道を歩み続けることをためらって帰国する。帰国後の彼女は、自分で自分の舞踊をもう一度探し直さなければならなかった。そして一時は、文学者たちの力を借りて、グラームのような劇的な昂揚感を伴う舞踊作品の創作に進むものの、しだいにダンサーとしての自己表現を深めることに転換し、晩年はカンパニーによる群舞を配して、自身がソロを踊るような場面が多くなった。このアキコの軌跡は、幼時に石井小浪に教わった世界への回帰の道程だったと私は思う。
アキコの訃報は、石井小浪門下であり、今は静岡県磐田で活躍する佐藤典子氏からもたらされた。佐藤氏のところへは、やはり石井小浪門下だった近藤弘美氏から伝わったもので、それを当方へ知らせてくれたのだ。このように石井小浪時代のネットワークは今でも生きている。佐藤氏によると、アキコは入院中の病室で「明日は宝塚へ教えに行くから」と言って、からだを動かしていたということだ。ほんとうにぎりぎりまで踊り一筋だったのだ。
私は、彼女の最後の舞台の批評をオン・ステージ新聞に書いたのだが、出たのは後になってからだった。1956年7月の《神田明子(アキコ・カンダ)第1回公演》の批評を書いた時も、それが出たのは彼女がアメリカへ旅立った後だったことを思い出す。こんど読んでもらえなかった批評は、そのうちに私が持参するまで待ってもらうことにしよう。
ずいぶん長い間、アキコには踊りを見せてもらった。感謝と共に心よりご冥福を祈る。(山野博大)