March 20, 2011
大駱駝艦『灰の人』
節電のため、劇場へ通じるエスカレーターも停止している中、非常階段を昇って客席へ着くと、やはり空席のほうが目立つ。上演前、麿赤児によるアナウンスがあり、「われわれにできるのは、踊ることだけ。御魂振り、御魂鎮めのために踊るのみ」という趣旨が伝わると、思いを同じくした観客が大きくうなずく姿があった。
冒頭、我妻恵美子によるソロが圧巻である。しゃがんだ状態からゆっくりとひざを伸ばして立ち上がるときの、研ぎ澄まされた身体の強さという美しさは、一気にこの世ならざる時空へ観客を連れ去る。風になびく髪とスカートの時間を固着させたような衣装もよい。風の妖精というより妖怪、あるいはトリックスター。そこへ現れる、得体の知れない火の番人のような村松卓也、向雲太郎、奇妙な動きを繰り返す、ナマな生きものに還元されたかのような男女のアンサンブル、そして、灰の人、麿赤児。神話あるいは寓話のごとく、神々しささえ感じるヒトの原初的な動きと形とナンセンスな愚行が、錯綜し、重なり、転倒しあいながらシーンが紡がれていく。猥雑な表層をまといながら、同時に、ヒトが常識や自我から離れて、純粋なる動きの質を獲得し、神々しい肉の運動体となって輝くことを可能にしているのは、彼らの明晰でノイズのない動き(静止を含めた)である。それは、鍛錬された身体の技術と集中力に支えられたものであり、麿の構成力であり、そこにほかのダンスとは異なる身体の可能性と美しさが見出される。
作品全体として、灰の世界からの再生という筋があり、それは美術で象徴的に表される。普段ならば、少々キッチュでケレンみのある表現は、パロディともジョークともとれる鷹揚さがあるのだが、震災の被害映像に日々胸を痛ませる現状では、ベタな意味に受け取られやすいかもしれない。作品が、単一の意味に解釈されるのは、彼らとしては不本意でもあろうが、現在はそのようなコンテクストに左右されてもしかたあるまい。まったくの偶然ではあるが、作品が現実の事象とシンクロしてしまったのだから。それを見に行くか否か、いかに解釈するかの判断は、観客にゆだねられている。(稲田奈緒美 2011/3/17 19:30 世田谷パブリックホール)