November 19, 2016

Noism劇的舞踊vol.3 『ラ・バヤデール-幻の国』

金森穰の演出、平田オリザの脚本、Noism1の振付。演劇と舞踊を組み合わせた“劇的舞踊”の第三弾である。演劇を取り入れたのは「社会化する(大衆化でなく、社会的問題提起をする)為である」と、プログラムやインタビュー等で金森は語っている。金森の作風とはあまり接点が見出せない平田オリザの脚本が加わることで化学反応が起こり、それが成し遂げられるのだろうか。そして、バレエの中でも一際エキゾチックかつドラマティックで、これまた平田のイメージとは相容れない『ラ・バヤデール』を底本にして、どんなアレンジが施されるのだろうかと興味津々で公演に向かった。

可動式の柱が舞台を囲んで並び立ち、会場であるKAAT特有の傾斜のきつい客席が相俟って、ヨーロッパの野外劇場さながらの雰囲気に、開演前から気分が高揚する。幕開き、老人ムラカミ(SPACの俳優)が車椅子に乗って現れ、政治、宗教、民族等の対立によって滅びた国“マランシュ”を回想する。オープニングはオリジナルであり、国の設定はバレエと異なる。バレエはインド、Noism版は5つの民族が表層的に共存している傀儡国家で、暗に満洲国を指しているのだろう。衣装や振付などももちろん異なるが、展開は、バレエの『ラ・バヤデール』をなぞっている。井関佐和子演じる踊り子ミランが、バレエにおけるヒロインのニキヤと同じタイミングでベールを取り、壺や太鼓の踊りがあって、蛇に噛まれ、影の王国では女性が一人ひとり登場し、最後に国が崩壊する。

バヤデール達はいずれも素晴らしくトレーニングされていて見目麗しく、振付は、金森が監修しているのだろう、さすがNoismといった感じで面白い。特に井関佐和子の儚げでありながらも芯の強さを秘めたヒロイン像が良く描かれている。また、バレエで言うところの山下りは、中央奥から縦1列に並んでミランの幻影達が一人ひとり彼女を裏切った恋人のバートルの前に現れては左右に分かれていく姿が実に幻想的で、バレエに匹敵する美しい場面となった。SPACの俳優達はよく声が通り、迫力があって、ISSEI MIYAKE所属の宮前義之による衣装はとてもゴージャスだ。セットも可動式の柱に加えて、能を意識したという左奥につながる橋掛かりが、全編を通して展開に大いに華を添えた。このように、要素の一つひとつを取ると素晴らしく、金森の並々ならぬ意気込みが感じられる。しかし、それら全てが組み合わさるとtoo muchに感じてしまうのが残念だ。

平田オリザの舞台は、何気ない日常の会話と絶妙な間で、いつの間にか彼の世界に引き込まれ、静かに、しみじみと考えさせられるのが魅力である。ところが今回は、愛、記憶、歴史、民族…、観念的な言葉を用いて、全力かつ直球で訴える。Noismの作品に見られる押しの強さや『ラ・バヤデール』のドラマティックな音楽や物語を平田が中和して社会化されるのかと思いきや、テキストで2倍になった形だ。平田のテキストに金森が何度も手を入れたというのもうなずける。尊敬する鈴木忠志へのオマージュであり、「権力下における語らないモノ、語れないモノたち」にフォーカスし、幻の国を語り継ぎ、幻で終わらせないという主張は理解できるが、観る者の「考える」作業を奪うと、逆に響かなくなってしまう。次回は、いつものNoism作品のように、観る者に考える余地を残す演出を期待したい。

さらにもう一つ言えるのは、Noism版は、バレエを観たことのない観客のほうが楽しめたかもしれないということだ。バレエを見慣れていると、バレエの『ラ・バヤデール』の展開にNoismのイディオムが一つひとつ当て嵌められているように感じられ、新鮮な驚きやカタルシスがどこまで行ってもおとずれない。そして、演劇の要素がむしろダンサーの踊りのテンションを遮っているようにも感じてしまう。このあたりが演劇と舞踊を組み合わせることの難しさなのだろう。とは言え、筆者にとって社会的な問題を語ること、伝えることの難しさを考える契機になった。また、世界的な右傾化が危惧されるところに来て、こうしたテーマに挑戦し、一石を投じたところも大いに評価したい。

ダンサー達がシンプルなベージュの衣装を着て、中央に集められた柱を囲んで歩いては止まるラストは、シルエットまで緻密に計算されいて、殊更に美しかった。新潟での初演にはなく、神奈川公演から付け足された場面のようだが、このラストによって、頭から抑えられていたものが取り除かれたような開放感を味わい、同時に、繰り返す歴史にしみじみと思いを馳せることとなった。

(吉田 香 2016/07/01 19:00 KAAT神奈川芸術劇場)


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