November 18, 2016

Noism劇的舞踊 vol.3『ラ・バヤデール―幻の国』

『ホフマン物語』(2010年)『カルメン』(2014年)に続く、金森穣振付の"劇的舞踊"シリーズ三作目。前二作は広く知られた原作とオペラがあり、本作にも有名なバレエがあるが、原作はない。そこを平田オリザの書き下ろした脚本で肉付けし、静岡県舞台芸術センター(SPAC)から3名の役者を迎えて上演した。

客席の明かりが消える前に幕が開く。白く大きな一枚の布を敷いたようなステージ中央に、背丈の異なる柱が集められており、その周りを老人が巡っている。本作はこのムラカミという老人の思い出ばなしという設定だ。左右の床には交差しながら袖に消える、白い線が引かれている。冒頭、出演者は白い線を通路に見立て、その上を走って登場し舞台に勢ぞろいする。バレエ版で"ニキヤ"にあたる"ミラン"がひとり遅れて加わるが、精霊の姿の彼女だけは白い線にとらわれずに走る。中央に集められた柱が異動し、舞台をかこむように分けられる。赤い衣装の馬賊が重心を低く取った力強いステップで踊り、続いて騎兵隊の男たちが長いヤリを持って踊る。騎兵隊長がバレエ版で"ソロル"に当たる人物である。この導入部のダンスは迫力があり、一気に物語の世界に引き込まれた。騎兵隊と馬賊のあいだに武器とアヘンの取引が交わされ、その現場を大僧正に見とがめられる。大僧正は祈りのためにバヤデールを集め、美しいミランに何らかの決断を迫る。ミランと騎兵隊の愛情溢れるパ・ド・ドゥ、騎兵隊長と皇女とのお見合い、大僧正の密告、皇女とミランの対面、婚約式とミラン毒殺までが一幕である。

二幕が始まると、この地でアヘンによる中毒者が続出していることが説明される。死んだミランが精霊となって現れる"影の王国"と結婚式がそのあとに続く。エピローグは再び冒頭の場面に戻り、中央に集められた柱の周りを、死者たちがぐるぐると歩いて終わる。ムラカミ、皇女、大僧正にはセリフがあり、それぞれSPACの貴島豪、奥野晃士、たきいみきが務めた。

本作の見所は何と言っても二幕の"影の王国"であった。12名の精霊が中央に作られた通路から、ヴェールで顔を隠して登場する。騎兵隊長は死んだ恋人の面影を探すが、ヴェールをめくると別人という無慈悲な描写の後、ついにミランが登場する。伸びやかに踊るミランの足もとに騎兵隊長がうずくまったり、向き合ったかと思えば精霊たちに引き裂かれたりと、身体表現ならではの切なさを交えてぐんぐん盛り上がってゆく。腕の使い方にバレエのボジションを多用した、かろやかな振付が素晴らしい。騎兵隊長とミランが微笑みを浮かべ、精霊たちを含めた全員が同じステップを踊るフィナーレは、圧倒的な多幸感に溢れていた。

ダンサーは実力者ぞろいだったが、わけてもミランの井関佐和子が強く心に残った。喜びや哀しみを素直に表す子供のような素朴さと、透明感がある。皇女との対面の場はバレエ版と異なり、ミランは逆上しない。皇女がセリフをまくし立てるなか、無言の舞姫はうなだれてやり込められている。ミランは常に誰かの関心の的となっており、舞台に一人きりになるのは、恋人を待つ短い場面だけ。それすらも騎兵隊長の目が遠くからとらえた姿のようだ。一幕のミランは、様々な登場人物の目に写る印象をコラージュしたかのようで、儚さがきわ立った。一転、二幕の"影の王国"では、ミランの周囲をめぐるように騎兵隊長が踊るなど、ミランが場をコントロールするようになる。生きている時は幻のようで、精霊となってから主体性を持ち実体感を増すという逆転が、作品に深みを与えた。騎兵隊長の中川賢は、低く辛い姿勢でもバランスがブレず、体を反らす際にはしなやかで、強さの陰にある内面の繊細さをムーヴメントで表した。侍女と看護師の二役を努めた石原悠子は、食わせ物の女として存在感を示した。台詞はないが、鋭い視線が多くを物語っていた。

平田の脚本は「幻の国マランシュ」を舞台に、登場人物の身分のちがいを、民族のちがいに置きかえた点に特色がある。バレエ版の戦士たちはたわむれに虎を狩るが、本作にはリアルな紛争があり、社会問題としてのアヘンがあり、隣人がいつ裏切るかという緊張感がある。名前や故郷の花の種類などから、それぞれの民族は日本、韓国、モンゴルなど固有の地域が想定されているようだ。「マランシュ」の"13年の栄光"が、Noismの活動年数と被っていることにも意味があるのかもしれない。設定は作り込まれているが、それでもバレエ版を知っていた方が格段に面白い。ムラカミと看護婦以外の登場人物はバレエ版に対応する役があり、ミンクスの音楽も場面を理解する大きな助けになる。馬賊がバレエ版の苦行僧であったり(本作でも聖なる火を飛び越えている)、婚約式で『壺の踊り』や『太鼓の踊り』が披露されたりと、振付でのみバレエ版との関連が見られるものも多々あった。

言葉は時に、自由に広がるイメージを、枠の中に固定してしまうことがある。本作では、ことさらに大袈裟な口調で、登場人物の心情と場面の状況が説明される。同時期に吉祥寺シアターで上演されていた、平田率いる青年団による『ニッポン・サポート・センター』の、自然な会話の積み重ねとは、極端に異なるスタイルであった。結婚式で皇女が「幻でもかまわない/わたしはこの人と結婚する」と高々と語る場面では、客席から失笑が漏れた。カーテンコールは熱狂的ではあったが、3人の役者には拍手を止めている観客も見られた。推測の域を出ないが、その意図は作中の演劇のありかたに対するブーイングだったのではないだろうか。筆者は影の王国を始めとするダンスのシーンに強い感銘を受けたが、一部の観客のカーテンコールでの反応には大いに考えさせられた。金森は、昨今の日本の舞台芸術では、ダンスよりも芝居の方が学ぶ所が多いという。とはいえ言葉とダンスの得意とする表現を生かしつつ、一つの作品の中に収めることは、思いのほか難しいのだろう。

他に主な出演者は、馬賊の長とその妻に吉裕哉と、池ヶ谷奏、ヨンファに梶田留以、アルダルにチェン・リンイ。演出の豊かなアイデアが、衣装(宮前義之)、装置(田根剛)、照明(伊藤雅一ほか)などの力によって舞台上で実を結んでいた。

(隅田有 2016/07/03 15:00 KAAT神奈川芸術劇場)


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